ブックタイトルしろありNo.161

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概要

しろありNo.161

16 T e r m i t e J o u r n a l 2 0 1 4 . 1 N o . 1 6 1侵入が確認された北部で小笠原村による駆除事業が既に何年も実施されており, イエシロアリの侵入は北部の都道沿いに限定的のみであると言われていた。 母島の集落部は, イエシロアリの北部侵入箇所から5㎞以上離れているため, 父島のような大規模スオームの発生やイエシロアリによる建物加害が頻繁に確認されるという状況はこれまで生じてはいない。しかし,父島がイエシロアリの激害地であるということから鑑みて, 母島におけるイエシロアリについては, これまでの経緯も含め分布状況の把握を早期に行い, 有効な対策を講じることが急務な状況であった。3.母島へのイエシロアリ侵入歴史3.1 侵入初期(終戦(1945年)~ 1992年) 戦後, 小笠原諸島が米軍の統治下におかれていた頃に, イエシロアリが父島に侵入したとされている3)。この頃に父島に持ち込まれた建設資材に大量のシロアリが付着していたという新聞報道がある(1994年10月31日付東京新聞)。 父島から南に50㎞の位置にある母島は, 米軍の統治下時代は旧島民の帰島は許されず無人島であった。そして, 1968年の日本への返還当時, 母島にはイエシロアリの侵入は見られなかったと言われている。 以下に, 母島の土地利用概況を簡単に述べる。 母島での居住地は, 現在は沖港を望む元地集落及び西側に隣接する静沢集落のみである。戦前は島北部の北港(北村)にも集落があった。主要な道路は現在,南北に縦断する都道が1本ある程度である。元地集落より北側は森林であり, 元地集落の南側(評議平ほか)は農地と森林である。 佐藤ら4)によると, 1983年の調査時点で元地集落の村役場のトイレや都営住宅においてイエシロアリの食害及び食害痕を確認している。しかし, 地域住民からの聞き込みでは, 母島では現状ではシロアリの生息加害はみられない, まだ侵入が生じていないという意見がかなり広く聞かれたとある。また, 元地集落の月ヶ岡神社の境内において, 極めて大規模なイエシロアリの食害痕とそれが原因で倒壊したと思われる建築物の残骸を確認しているが, 住民への聞き込みでは, 建造物が壊されたのは戦後間もなくとのことであると記している。 佐藤ら4)のこの記載が母島で一番古いイエシロアリ被害の記録となる。しかし, 終戦後(1945年)の母島は無人島であり, 「戦後間もなく」建物を壊すようなことが行われる状況ではなかった。また, 返還当時(1968年)は, 母島の集落部はジャングル化しており, 月ヶ岡神社境内も含め島内に建物は残っていなかったという, 現在の住民からの聞き取りもある。現在, 月ヶ岡神社には社殿があるが, これは1980年に再建されたものであり, これまでシロアリの被害を受けて取り壊された過去はない。また, 佐藤ら4)が確認した建築物の残骸は現在残っておらず, 社殿の隣の金比羅神社の跡地に食害痕のある古材がわずかに残っているのが見られるが, これが佐藤らが見た残骸であるかは不明である。 このように「月ヶ岡神社での戦後間もなく」の事例を追認は出来なかったが, 佐藤ら4)の記載に基づくならば, 母島での一番古いイエシロアリ被害は, 戦後の時点で発生していたこととなる。3.2 シロアリ対策の開始以降(1992年~) 父島においては, 1992年頃にシロアリによる木造建築物への被害がピークとなり, 6月のスオーム期の夕図1  母島