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しろありNo.155

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しろありNo.155

?研究発表会? 長崎県世界遺産登録へ向けた白蟻対策事業の報告満  山  貴  洋 ( 32 )しろあり No. 155, pp.32―38. 2011年1月1. はじめに 長崎県には,全国1,000余りあるキリスト教会のうち,約130棟が集中している。そのうちのいくつかは,平成13年にユネスコの,世界遺産暫定リストに?長崎の教会群とキリスト教関連遺産? として登録され,明日の世界遺産として早期登録に向けた作業が進められている。これらの教会は,国立公園内にある入江や海に面した高台斜面などに建ち,農・漁業を生業として造り上げた集落景観と一体となって,素晴らしい文化的景観を形成している。 2010年,長崎県は,世界遺産の構成資産候補となっており,国・県指定文化財にもなっているこれらの教会建物の保存管理作業として,白蟻対策事業を実施し,当協会会員も工事を行った。これら長崎の教会群の紹介と教会建物の白蟻対策事業を報告する。2. 長崎の教会群遺産候補の概要 長崎県が,世界遺産登録を目指している?長崎の教会群とキリスト教関連遺産?について長崎県の世界遺産暫定一覧表追加資産に係る提案書を引用し説明する。2.1 教会群の歴史的背景 1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島・長崎を訪れ,キリスト教の布教を始めた。1570年にはイエズス会の本部が,長崎に置かれ,長崎はキリスト教,布教の拠点となった。その後長崎では,多くの教会が建てられキリスト教文化が栄えた。 ところが,1597年の豊臣秀吉の?伴天連追放令?,その後の徳川幕府の?禁教令? などにより,日本ではキリスト教が禁止され,数多く建てられた長崎の教会群も破壊された。 仏教への改宗が強制され,改宗しない信徒には迫害が加えられた。島原の乱を経て,さらにキリスト教への弾圧が徹底された。 こうした歴史の痕跡は現在も残存し,キリスト教関連史跡等として保存・継承されている。 1641年の鎖国の完成により,ローマ教皇庁では日本のキリスト教は根絶されたと考えられたが,教会もなく神父もいないなかで信徒たちは地下組織を作りあげ,洗礼やオラショ(祈りの言葉)を伝承し,また人里離れた浦々や島々に移り住み,潜伏してキリシタンの信仰を守り続けてきた。 1859年,江戸幕府は,横浜,長崎など5港を開港し,外国との貿易が再開された。この開港を機に,1864年,長崎の南山手居留地に,26聖人に捧げられた大浦天主堂がプチジャン神父らにより建てられた。献堂式から1 ヶ月後,浦上の信徒数名が訪れ,神父に信仰を告白した。いわゆる?信徒発見? である。250年の潜伏を経ての信徒復活の知らせは,宗教史上の奇跡として世界中を巡り,大きな衝撃と感動を与えた。長崎港外の島々や,外海,五島,平戸,天草などに潜んでいた信徒たちも次々と神父の指導の下に入った。しかし,明治維新政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ,浦上信徒総流配などを断行し,迫害は外海,五島の島々まで及んだ。信仰の自由が黙認されたのは,1873年禁教の高札撤廃後のことであった。 こうした長い弾圧の歴史を経たのちに建てられた教会群は,長崎県を中心とした北西九州地方に極めて濃密な分布を示す。特に信徒数で全国の約15%を占め,現在もキリスト教の中心地である長崎県では,原爆の被爆後に再建された浦上天主堂を頂点にして,教会群は約130棟を数える。2.2 教会群の遺産価値 教会群の中でも,国宝・大浦天主堂をはじめとする教会とその関連資産は,次のような顕著な価値を有し,日本近代の歴史文化の典型像を示している。① 長崎の教会群とその関連遺産は,世界史に類を見ない長期の潜伏からの劇的な復活という歴史性を背景にして,抑圧からの解放と協会への復帰の喜びという崇高な精神性を象徴してい