ブックタイトルしろありNo.157

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概要

しろありNo.157

?研究発表会?首里城復元工事に参加して平  井  佑  昌 1. はじめに(琉球史の簡略な概説と首里城復元の基本構想) 周知のように琉球国は中国,日本,東南アジア諸国と対等に交易することで独自の文化を作りあげ,一国家を形成していた。その首里城は琉球国の首都であった首里にあり,琉球は国王を擁する王国制度であり,王国の政治・文化の拠点として存在していた。14世紀後半ころには中国(明)との朝貢・冊封体制化にあったが,1609年に薩摩軍(島津氏)が琉球王国に侵攻した。少武力でしかなかった琉球は一方的敗戦を喫し,国王尚寧は少数の家臣とともに江戸へ連行され,2年後には琉球へ帰国することになるが,以後,琉球王国は日本の幕藩体制の下に組み込まれ,さまざまな政治的制約を受けることになる。この島津藩による琉球征服は,琉球にとって重大事件であった。15世紀初期に琉球の統一政権が成立して以来,アジア諸国との交易によって繁栄してきた独立国家が,薩摩支配を受ける事によって大きく変容したのである。 このことは島津藩が琉球王国を征服して以来,日本の政治的影響のもとで,琉球国は俗に言う?日中両属? の立場で生きていかざるをえなくなった。そして明治12年4月に琉球国は明治政府により,強制的に日本に併合させられたことで琉球王国は消滅し,?沖縄県? となって今日まで続いている。 さて,琉球王国が消滅した後の首里城はどのような変遷をたどったのであろうか。 その首里城も熊本鎮台(日本軍)が進駐することで熊本鎮台に撤収され,兵舎・その他として使用されたことで,各建物の解体・改変される。更には学校が建築されたことで往時の形容,間取りが現在では判らなくなってしまった。その首里城正殿も大正末期のころには解体の運命にあったのを取り壊し中止の命を受け,昭和7~8年にかけて保存修理が行われ,沖縄神社拝殿として修復され,?国宝? に指定されたが,去った沖縄戦では城壁の一部を残すのみで建物の総ては破壊・炎上した。 戦後,?米民政府令? によりその跡地に琉球大学が建設された。 そして,復帰以前の昭和32年ころから首里城周辺の守礼門,円覚寺,園比屋武御嶽などの復元・修復が行われるようになった。復帰後も,歓会門,久慶門,玉陵などの復元・修復がなされていた。 昭和42 ~ 57年にかけて行われた琉球大学の移転計画が現在の首里城公園計画の大きな契機となった。 平成4年11月3日,戦後沖縄県民が長年希求していた?首里城? が復元された。しかし,当初の復元工事は首里城正殿のみの復元予定であった。その理由は往時の古文書若しくは原資料が見つからなかったからである。しかし関係者の協力の下で資料調査をした結果,多くの図版,写真,古文書等が見つかったことで,?復元検討委員会? によって正殿を含んだ?御庭? を取り囲む建築物の空間構成が必要であるとの意見がだされ,急遽,北殿,南殿・番所,奉神門,広福門が再建されることで,往時の首里城の景観が甦ることになったのである(図1)。( 29 )しろあり No. 157, pp.29―32. 2012年1月図1 開園当初復元された首里城公園 各建物の配置図